アサーティブに生きることの意味
私の場合、コミュニケーション系で最初に触れたのがアサーティブ(アサーション)でした。前職時代の会社の風土改革プロジェクトの一環として社内でのアサーティブ研修の展開を企画したことがきっかけでした。
何事も学びを深めるためにはアウトプットすることが大事だと言われます。
その意味で自分が講師として何百名の人に対してアサーティブを伝え続けてきたのが自分にとってはとても大きな影響があったと思います。
アサーティブは、伝え方のスキルとして伝えられることが多いと思います。
もちろん、それはそれで大きな意味があると思います。
私の場合は、アサーティブは生き方そのものだと思っています。
すなわち、自己責任に基づき自分の選択で生きるということ。
自分で選択すると言っても、そもそも自分がどうしたいのかに気づいていないとできることではありません。
でも意外と多くの方が自分が本当はどうしたいのかに気づいていないのです。
より正確に言うと「こうあるべき」「こうあらねば」で自分のやりたいこと、言いたいことを覆い隠しているのです。
まさに私がそうでした。
「こうあるべき」「こうあらねば」があること自体が悪いことではありません。
それがあることで自分のアイデンティティを保てている側面もあると思います。
一方で「こうあるべき」「こうあらねば」が強すぎると選択肢が狭まり過ぎてしまいます。
自分の意思で選択するには選択肢が必要ですが、「こうあるべき」「こうあらねば」が強すぎると、ある意味選択は一択となってしまいます。
例えば「人に迷惑を掛けてはいけない」というのが強すぎると、自分がやりたいことがあったとしてもそれをやることで誰かに迷惑が掛かるかもと思った瞬間にブレーキが掛かります。
すなわち「やらない」の一択になりがちです。
その状態では、自分でそれを選んでいるようでいて実際には選んでいないのと同じです。
選んでいない以上、選択に伴う自己責任も発生しません。
すなわち悪い意味での他責になりがちです。
自分が自分の勝手な想像で自分にブレーキを掛けているだけなのに、自分と同じように配慮しない人を見て腹を立てるとか。
一方、自責というのは常に自分を責めるという意味ではありません。
自責である以上、自分の言動は自分で選択できる、すなわち自分の人生の手綱を自分で握れるということを意味します。
そして、選択肢を増やすというのは、それまでにやったことのないことも選択肢として加えるということを意味します。
それは多くの人にとってはある意味怖いことでもあり、ある種のチャレンジを意味します。
例えば「人に迷惑を掛けてはいけない」との思い込みを持っている人にとっては迷惑が掛かるかもしれないことを思いきってやってみるとかです。
こういうことをやってみて何がわかるかと言えば、多くの場合で自分が心配していたことが何も起こらないということに気づくということです。
相手の迷惑だと思ったことが実はそんなことなく、むしろ頼ってくれたことで喜んでくれた…なんてことすら起こるかもしれません。
もちろん何でもかんでもやってみたらうまくいくということが言いたいわけではありません。
実際にやらない方が良かったと思うことも起こるでしょう。
それは、やってみたらうまくいくこともあるし、そうでないこともあるという当たり前がそこにあるだけなのです。
やりもしないで、想像だけで、自分で勝手にブレーキを掛け続けているのはもったいないよねぇということ。
自分が芯からやりたいことがあったとき、それをやることで何が起こり得るのかをニュートラルに想定し、何が起こっても自己責任で引き受けるという前提で自分でどうするかを選択していく。
これもまた「自己実現」につながる道なのだと思います。
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