私が「伝え方解体新書」としてアサーティブをお伝えする際、アイスブレイクとして実施するのが、人それぞれの価値観や思考の違いを実感できるゲームです。
自分と他者は価値観も思考も異なるという前提に立ってコミュニケーションを取らない限り、アサーティブ、すなわち自分も大切に扱いつつ、他者も大切に扱うコミュニケーションのあり方は成り立ちません。
言葉は、価値観、思考の違いを乗り越えるためにある
この世の多くの人、いやほとんどの人が、
悪気なく自分の考える常識が世の中の常識だと思い込んでしまっています。
単純に言えば、それが、
すべてのコミュニケーションにおけるすれ違いの要因です。
もし、お互いの価値観や思考が完全に一致しているのであれば、もはや言葉は要らないし、もっと言えばコミュニケーションを取る必要すらないでしょう。
その意味では、お互いの価値観、思考の違いを乗り越えてコミュニケーションを取るためにこそ言葉はあるはずなのに、知らぬ間に
自分の価値観を相手も共有しているものと思い込んで言葉というツールを使っているのです。
人それぞれに使うモノサシが違う
特に、私のように“べき”、“ねばならない”の強い人間は、余計にその傾向が強くなります。
価値観を共有しているものと思い込んでいるどころか、価値観の共有を強制しようとすらしていました。
これでは、うまく周りとコミュニケーションが取れるわけがないですね。
私の例は極端としても、価値観を共有できているものと思い込んでいると、こういうことが起こります。
例えば、誰かに頼んでいた仕事が仕上がってきた際、その成果物の質が自分の基準に照らして不十分だと感じたとき、ひょっとしたら相手にこう言ってしまうかもしれません。
「もっと、きちんとやってください!」
この場合で、自分と相手の間で質に対するモノサシの違いがあったとしたらどうでしょう?
相手にとっては、自分なりの基準で“きちんと”成果を出していると思っているとしたら。
きっと相手には「きちんとやってください!」の思いは届きませんよね?
結局ここでの問題は、“きちんと”に関し、
自分と相手は同じモノサシを使っているとの思い込みがあることです。
質に対する基準というのも、人それぞれに違うものです。
例えば、ストレングスファインダー®の資質で言えば
「最上志向」を持っている人の基準は、その他多くの人の持つ基準よりはるかに高いのです。
いずれにしても、
自分が“これがあたり前”と思っていることを、相手は“あたり前”とは思っていない。
それがあるからこそ、そのギャップを埋めるために言葉はあるのだと思います。
相手との違いに目を向ける
上の例で言えば、“きちんと”の基準が相手と違う“かもしれない”の前提があれば「もっと、きちんとやってください!」との言葉にはなり得ませんね。
自分の意味する“きちんと”が具体的にどういうことなのか、言葉を省かずに説明するはずです。
もっと言えば、仕事を頼む時点で自分がどこまでを求めているのかを、それこそ“きちんと”説明しているはずです。
すべての思い込みは無意識であり、それだけに日常のあらゆる場面で逐一相手との価値観の違いを意識することはできないと思うし、やる必要もないと思いますが、
繰り返し同じような場面ですれ違い、その度にネガティブな感情が湧くのであれば、自分と相手の何が違うのかということに目を向けてみると良いと思います。
アサーティブの自分も相手も両方大切にするという意味は、
相手と違う自分を尊重し、そして自分と違う相手を尊重することを意味するのです。
自分と他者は異なる価値観を持っているし、異なっていることに価値がある。
そういう前提でコミュニケーションが取れると、きっとすれ違いも少なくなりますね。
特に、勝手に価値観を共有できていると思いこんでいる夫婦間においては。
あっ、うちのことでした。(^_^;)
文責 ギャラップ社認定ストレングスコーチ 知識茂雄